1958(昭和33)年、東京生まれ。同志社大学卒業後、数多くのテレビ・ドキュメンタリーを演出する。97年、蓮ユニバース設立。初の劇場公開作品となった『延安の娘』(02年)は文化大革命に翻弄された父娘を描き、ベルリン国際映画祭など世界30数カ国で上映され、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭 最優秀ドキュメンタリー映画賞ほか多数受賞。2作目の『蟻の兵隊』(06年)は中国残留日本兵の悲劇を描き、記録的なロングランヒットとなる。最新作の『先祖になる』(12年)はベルリン国際映画祭エキュメニカル賞特別賞、香港国際映画祭グランプリ、文化庁映画賞文化記録映画大賞を受賞。2008年からは立教大学現代心理学部映像身体学科の特任教授を務め(13年3月まで)、卒業制作としてプロデュースした『ちづる』(11年・赤﨑正和監督)は全国規模の劇場公開を果たす。著書に『蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』(07年・新潮社)、『人間を撮る ドキュメンタリーがうまれる瞬間(とき)』(08年・平凡社 日本エッセイスト・クラブ賞受賞)
●被災地で映画を撮ろうとした理由
実は、被災地の友人に背中を押されたのです。僕自身、福島で少年時代を過ごしたこともあり、震災直後から何かせずにはいられない気持ちでした。何かできることはないかとその友人に訊ねると、彼は「どうせ来るなら映画を撮りに来い」と言いました。頭を殴られたような衝撃で、これは覚悟を決めるしかないなと思いました。そして被災地の情報を集めるうちにある考えが浮かびました。こんな時だからこそ人間力が試されるのではないか。きっとすごい人に出会えるに違いないと。被害の記録に留まらず、困難に立ち向かう人間そのものを撮りたい。そんな風に思い始めたのです。
●佐藤直志さんとの出会い
仙台から南三陸を抜けて陸前高田に入ったときでした。高台にあるお堂で花見が開かれていたのです。全国的に自粛ムードが広がる中、当の被災地で見た光景は、悲惨な状況ばかりを伝える報道とのギャップを感じ、新鮮でさえありました。この花見は亡くなった人の供養と避難所にいる仲間を少しでも元気づけようという試みだったのですが、その呼びかけ人が直志さんでした。彼は集まった人を前に「今年もさくらは同じように咲く」と静かに語りかけました。僕にはそれが復興への決意と覚悟をにじませた生活者の言葉に聞こえました。映像でその姿を確認した僕は、彼を撮ることに決めました。
●撮影はどのように行われたのか
被災地の撮影では何よりも人間関係を築くことが重要です。そのため陸前高田には数々の現場を共にし気心の知れたカメラマンの福居正治さんと、おもに2人で通いました。1年半に及ぶ撮影期間で往復の車の走行距離は5万キロに達しました。1往復約1000キロですから50回は通ったことになります。 最初のロケでは車中泊が10日以上も続きました。近くの町に宿を取ろうとしても既にマスコミに押さえられどこにも空きはありません。ロケ地の皆さんはそんな僕らを気遣い、当時5人が寝泊まりしていた寺のお堂(花見が開かれた場所)に一緒に泊まることを許してくれました。恥ずかしい話ですが、時には食事も作ってもらいました。もちろん電気、水道は止まったまま。トイレは簡易式のものが設置されたばかりです。せめてもの恩返しに、撮影の合間にはがれきの片付けや食器洗い、買い出しなど、できる限りのお手伝いをさせてもらいました。今にしてみれば、信頼関係を築くにはそれがよかったのかもしれません。
●撮影中にこころがけたこと
ドキュメンタリーは撮らせてもらっているというような関係のうちは緊張感のある画が撮れないものです。そのため前作『蟻の兵隊』では山西残留兵士の奥村和一さんと「共犯関係」を築き、僕が重要なシーンを設定することで(つまり仕掛けて撮ることで)、一緒に国家の欺瞞に立ち向かいました。しかし、被災地でそのような方法を取ることが許されるはずもありません。そのため本作ではこちらから被写体に何かをしてほしいと要求するのをやめました。素直に撮ることをこころがけたのです。でも、実際にはその必要がなかったとも言えます。自宅を建て直すという夢に向かう直志さんの言動は、つねに僕の予想を超えていたからです。まさに有言実行。こんな場所に家を新築できるのかという僕の疑念は、やがて建ってほしいという願望に変わり、最後には建つという確信に変わりました。
●前作『蟻の兵隊』のヒットで映画づくりの姿勢は変わったか
残念ながらドキュメンタリーの場合、作品のヒットによってスポンサーが現れるなどということはありえません。資金は自前で調達するしかないのです。ですが『蟻の兵隊』が多くの人に受け入れられたことで僕の流儀で映画をつくることに自信を持てたのは確かです。それは「個を極める」とでもいうのでしょうか。徹底して「個を」見つめることで、普遍性をもったおもしろい映画がつくれると信じています。
本作では笑いにもこだわりました。想像を絶する悲劇に見舞われても、被災者である東北人は朴訥で土地に根ざしたユーモアを忘れずに生きています。それが人間であり、悲しみの向こうに透けて見える明日への希望だと思うからです。